INICIAR SESIÓN「君、カルテを見せてもらったことはある? 具体的な数値を聞いたことは? ……ないだろうね。天道が箝口令を敷いているからだ」
「どうして、そんなこと……」「簡単なことさ。……君を縛り付けておくための『人質』だからだよ」 世界が、ぐらりと傾いた気がした。 人質。 母が?「お母さんが元気になって退院してしまったら、君は自由になってしまう。借金なんて、君が本気で働けばいつかは返せる額だ。……でも、病気が完治せず、常に高額な治療が必要な状態が続けば、君は永遠に彼に縋るしかない」「やめて……! 征也くんは、そんな人じゃない! 彼は不器用だけど、母のことを本気で心配して……」「不器用?」 蒼くんは嘲笑った。「彼はビジネスマンだよ、莉子ちゃん。損得勘定でしか動かない冷血漢だ。……君のお父さんの会社を潰した時も、そうやって『救済』を餌に近づいて、最後は骨までしゃぶり尽くした」「っ……!」 父の会社の倒産。 それは、経営不振が原因だと聞いていた。でも、その裏でどこかの大企業が父の会社の不利になるように動いていたという噂は、当時から絶えなかった。 もし、それが征也の思惑によるものだったとしたら? もし、彼が最初からすべてを仕組んでいて、今もまた、私を籠の中に入れておくために母を利用しているとしたら?「信じられないなら、確かめてごらんよ。……今、院長室に誰がいるか」 蒼くんは私の耳元で、甘く囁いた。「天道が来ているよ。……君に内緒で、主治医と密談するためにね」「征也くんが……来てる?」 今日は重要な会議があるから、迎えには来られないと言っていたはずだ。 夕方まで会社にいると。「……行けばわかるさ。◇ 病院の特別個室があるフロアは、異様な空気に包まれていた。 消毒液のツンとする匂いと、張り詰めた緊張感。 病室の前には、岩のように屈強な黒服の男たちが二人。 エレベーターホールにも二人。 征也の言葉に嘘はなかった。これでは、蟻一匹逃げ出すことなどできそうにない。 母との面会時間は、砂時計の砂が落ちるようにあっという間に過ぎ去った。 眠る母の痩せた手を握りしめ、心の中で謝罪を繰り返す。 ――ごめんなさい、お母様。私、行かなくちゃいけないの。 病室を出て、重い足取りで廊下を歩く。 ポケットの中で握りしめたスマートフォンが、微かに震えた気がした。 蒼くんからは『中庭で待っている』とメッセージが入っていた。 でも、どうやって? 背後には、私の影を踏むような距離でSPが付き従っている。 息が詰まる。「あの……少し、風に当たりたいんですけど」 私は立ち止まり、振り返ってSPに声をかけた。「屋上庭園へ行ってもいいですか」 SPたちは顔を見合わせ、インカムで短く言葉を交わした後、能面のような無表情で頷いた。「承知いたしました。ご案内します」 許可が出た。 屋上ならば袋小路だ。逃げ場がないから安心だと判断したのだろう。 私は彼らに挟まれるようにして、エレベーターの箱に閉じ込められた。 屋上庭園は、患者たちの憩いの場として開放されている場所だ。 手入れされた花壇には季節外れの花が揺れ、自動販売機のモーター音が低く唸っている。 平日の中途半端な時間帯、人影はまばらで、風の音だけが耳につく。 私はベンチに腰を下ろし、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。 冷たい風が、火照った頬を撫でていく。 SPたちは少し離れた場所で、鷹のような目で周囲を警戒していた。 この距離なら、囁き声までは届かないはずだ。 その時。 植え込みの陰から、白衣を纏った男性が現れた。 医師の格好をしている。大き
◇ 翌日。 重く垂れ込めた雲の隙間から、色のない光が差し込んでいた。 雨は止んでいたけれど、湿気を帯びた空気は肌にまとわりつくようで、屋敷全体が巨大な水槽の底に沈んでいるような息苦しさがある。 私は身支度を整え、足音を忍ばせて玄関ホールへと降りた。 姿見の前で立ち止まり、ひきつった自分の顔を見つめる。 睡眠不足で透き通るほど青ざめた肌も、丹念にメイクを重ねれば、平気なふりができる。嘘をつくための仮面だ。 鏡の中の自分が、無意識のうちに首元へと指を這わせていた。 鎖骨のくぼみに、硬質な重みが鎮座している。 大粒のサファイア。彼が私に与えた首輪であり、逃げ場のない所有の証。 この屋敷を出るのなら、置いていくのが筋だと分かっている。 けれど、留め具に爪を掛けようとした指先が、凍りついたように動かない。 最初は氷のように冷たかった石が、私の体温を吸い取り、まるで皮膚の一部になったかのように生温かく脈打っている。(……どうして) 頭では拒絶しているはずなのに、この重みがないと不安でたまらない自分がいる。 胸の奥がざわざわと波立つ。私は逃げるように鏡から視線を外し、スカーフをきつく巻き直した。 外すことはできなかった。せめて誰の目にも触れぬよう、深い場所に封じ込める。「……出かけるのか」 背後から低い声が鼓膜を震わせ、心臓が口から飛び出そうになった。 ゆっくりと振り返る。 階段の踊り場に、天道征也が立っていた。 いつもなら針金一本通さないほど完璧に着こなしているスーツ姿ではない。昨夜と同じシャツは深く皺が刻まれ、胸元のボタンは乱暴に外されている。整えられた髪もかき乱され、数本が額に落ちていた。 漂ってくるのは、強いアルコールの匂い。 彼は一睡もしていないのだろうか。その瞳は血走って濁り、どこか焦点が合っていないように見える。「……はい。今日はお母様のお見舞いに行く日ですので」 喉の震えを飲
私の心が弱いからだ。まだ、あの優しかった「征也くん」の面影を捨てきれずにいるからだ。 征也はふっと口の端を歪めた。 自嘲とも、蔑みとも取れる笑み。「……優しいな、人殺し相手に」「っ……」「心配するふりなんてしなくていい。……お前は、俺が早く死ねばいいと思ってるんだろう」 彼はグラスを煽り、空になった器をテーブルに叩きつけた。 ドンッ、という音が響き、私は肩を震わせる。「違います……私はただ……」「ただ、なんだ。……俺が弱れば、逃げ出しやすくなると思ってるのか」 息が止まる。 征也はふらつく足取りで立ち上がり、私の方へと歩いてきた。 酒の匂い。 ムスクと煙草、そしてアルコールの饐えたような匂いが混じり合い、鼻をつく。 彼は私の椅子の背もたれに手をつき、顔を近づけてきた。 充血した目。荒い息遣い。 怖い。 以前のような、計算された威圧感ではない。 制御の効かない、壊れた機械のような危うさがある。「……逃がさないぞ」 耳元で、湿った声が囁く。「俺が死んでも、お前は道連れだ。……あの世まで、鎖で繋いで連れて行く」 征也の手が、私の首元のサファイアに触れた。 冷たい指先が、肌の上を這う。「……っ、離して……!」 私は反射的に彼の手を振り払った。 パチン、と乾いた音がする。 征也の手が宙を舞い、力なく垂れ下がった。 彼は怒らなかった。 ただ、手負いの動物のような目で私を一瞥し、よろめきながら書斎の方へと去っていった。 背中が、小さく見えた。 どうしようもなく孤独で、悲痛な背中。 残された私は、冷え切った食卓で、震える拳
あの日から、屋敷に流れる時間は凍りついたままだった。 窓の外では、季節外れの長雨がしとしとと降り続いている。 湿った空気が隙間という隙間から入り込み、屋敷全体を覆う重苦しい沈黙を、さらに粘り気のあるものへと変えていた。 夜の七時。 ダイニングルームには、カチャリ、カチャリと、銀の食器が触れ合う乾いた音だけが響いている。 広すぎるマホガニーのテーブル。 その端と端に、私と征也は座っていた。 かつては、彼が私の隣に椅子を引き寄せ、膝が触れ合うほどの距離で食事をしていた場所だ。 けれど今は、物理的な距離以上に、果てしない断絶が二人の間に横たわっている。「……」 私は皿の上に載せられた白身魚のポワレを、フォークの先で小さく崩すことしかできなかった。 喉の奥が詰まって、固形物を受けつけない。 おそるおそる視線を上げると、テーブルの向こうに座る征也の姿が目に入った。 彼は、食事に手をつけていなかった。 手元にあるのは料理ではなく、琥珀色の液体が波々と注がれたロックグラスだ。 彼は無言でグラスを傾け、氷がカランと音を立てるたびに、強い酒を喉の奥へ流し込んでいる。 その姿は、見ていられないほど荒んでいた。 いつも完璧に整えられていた黒髪は乱れ、無精髭が顎を覆っている。 シャツのボタンは三つほど外され、露わになった鎖骨は病的なほど白い。 目の下には濃い隈が刻まれ、頬がこけている。 たった数日で、彼は別人のようにやつれてしまっていた。「……社長」 耐えきれず、私は声をかけた。 征也の手が止まる。 虚ろな瞳が、ゆっくりとこちらに向けられた。 その目には、私を射抜くような鋭さはもうなく、ただ曇った硝子玉のような虚無が広がっている。「……なんだ」 声が、酷く掠れていた。 酒焼けしたような、ざらついた響き。「少しは、食べてください。…&hellip
◇ 廊下に出た征也は、ドアに背中を預けたまま、動けずにいた。 膝から力が抜け、ずるずると床へ崩れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって必死で堪える。 左手が、小刻みに震えていた。 彼女に触れようとして、拒絶された手だ。 『気持ち悪い』『吐き気がする』 莉子の悲痛な叫びが、呪いのように鼓膜にへばりついて離れない。「……っ、ぐ……」 喉の奥から、乾いた呻きが漏れた。 痛い。 心臓を素手で鷲掴みにされ、握り潰されたようだった。 四年前。まだ何者でもなかった自分が、彼女の家の事情を知りながら、何もできずにただ指をくわえて見ているしかなかったあの日。自分の非力さを骨の髄まで思い知らされたあの時よりも、ずっと深く、致命的な傷だ。(……これでいい) 征也は、震える手で顔を覆った。 あそこで「俺じゃない」「神宮寺がやったんだ」と説明することはできた。 だが、今の俺にそれを証明する手立てはない。 神宮寺蒼は狡猾だ。自分の手を汚さず、すべての痕跡を綺麗に消し去り、俺になすりつけている。 今、莉子に真実を告げても、「往生際が悪い」「嘘つき」と罵られるだけだ。 それに、下手に神宮寺を刺激すれば、奴は何をするか分からない。莉子の身に、取り返しのつかない危険が及ぶかもしれない。 ならば、自分が泥を被り、悪役になればいい。 父の仇として憎まれ、軽蔑されても、彼女をこの手元に置いて守り抜く。 それが、不器用で愚かな今の自分にできる、唯一の償いであり、愛し方だ。「……嫌っていいぞ、莉子」 誰もいない薄暗い廊下で、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。「俺を殺したいほど憎んでくれ。……そうすれば、お前は俺から目を逸らせない」 歪んだ論理だとは分かっている。 でも、そうでもしなければ、心が粉々に砕けてしまいそうだった。 征也は壁に手をついて立ち
部屋に残された私は、その場に崩れ落ちた。 床に散乱した書類の海の中で、膝を抱えて小さくうずくまる。 これで、よかったはずだ。 彼がひた隠しにしてきた罪を突きつけ、拒絶し、言葉の刃でその心を切り裂いてやった。父を死に追いやった無念を、ほんの少しは晴らせたはずだ。 それなのに。 どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。 最後に見た、征也の目。 『気持ち悪いか』と呟いた時の、あの一瞬の表情。 まるで、迷子が親に見捨てられた時のような、どうしようもない孤独と恐怖が滲んでいたあの目が、脳裏から離れない。(……騙されないで。あれは演技よ) 自分自身に言い聞かせるように、奥歯を強く噛みしめる。 彼は父を追い詰め、全てを奪い去った略奪者だ。それだけは、決して揺るがない事実なのだから。 蒼くんがくれた証拠は嘘をつかない。 でも、もし。もし、まだ私の知らない真実があったとしたら? 彼はなぜ、あんなにも悲しそうな顔をしたの? 頭が割れそうだ。 私は書類の束をかき集め、ゴミ箱に叩き込んだ。見たくない。何もかも忘れてしまいたい。 ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震え、思考を現実に引き戻した。 無機質な液晶画面に浮かび上がる『蒼くん』の文字。 まるで、この密室での出来事を壁の向こうから覗いていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。『見たかな? 辛かっただろう。……でも、これで君も目が覚めたはずだ』 メッセージの続きが表示される。『準備はいい? 来週、病院へ行くだろう? その時、迎えに行くよ。……あの悪魔の手から、君を救い出すために』 来週、病院。 なぜ蒼くんがそのことを知っているのか。今の私には、そんな疑問を持つ余裕さえなかった。 私は涙を拭い、スマホをぎゅっと握りしめる。 もう、迷いはない。断ち切らなければならない。 この冷たい檻のような屋敷を出る。 母を連れて、天